和の壊し屋

【和の壊し屋】

和の壊し屋たちは、さも実際にあったかのように『◯◯悪玉説』というものを捏造して、偽史を創作して、人々に怒りの感情をもたせます。
もしもあなたが、マスメディアやネット情報を見て『◯◯は悪人だ』という感情を抱いて心を怒りのエネルギーで満たしているのなら、あなたは和の壊し屋たちの思う壺なのです。
『悪人の◯◯はこの世から排除しなければならない』という正義感は、怒りのエネルギーの表の顔であり、正義感に溢れている人ほど、世界の和のエネルギーを減らして、怒りのエネルギーを増やしている張本人だということに気づいていません。
和の壊し屋たちは組織的な工作員である場合もあるし、工作員が流した情報を鵜呑みにしている多くの一般人のことでもあります。
和の壊し屋たちは、欲のエネルギーを増長させる偽情報もたくさん垂れ流します。
1人の人間が分をわきまえず、欲望に駆られて人や命のエネルギーを奪っていくことは、和を乱す元凶と言っても過言ではありません。
奪われたものは憎しみや怒り、嫉妬心を抱き、そのエネルギーが争いの種となります。
誰のものでもない地球のものを過剰に欲しがったり、異常に執着していたり、手放したものを惜しんだりしているのなら、それもまた和の壊し屋たちの思う壺なのです。
『自分自身こそが和の壊し屋になってしまっている』と素直に認めて、生き方を改めていかない限り、調和の世界は程遠いのです。
また和の壊し屋たちは、ありもしない、存在もしない、確かめることができないことに一般人の意識を傾けさせて、そのことに人生の大半の時間を費やすように促します。
そして自分の心と向き合うこと、悟ること、無知を破ること、怒りのエネルギーを減らすこと、欲のエネルギーを減らすことなど、人間の精神性が高まることに意識を向けないように、彼らの洗脳手段であるマスメディアやネット空間を最大限に利用して、人間の精神性を高めないように促しています。
賢い人は、それらの誘惑のカラクリを知って、誰の言っていることも鵜呑みにしてはなりません。
識者と呼ばれている人でさえ、権威ある人でさえ、騙されて洗脳されています。
そういう世の中において、確かに信じても良いことは、『目の前の自然』と『指折り数えるくらいの賢者』くらいです。
ただし著名な賢者でさえ、賢者の仮面を被った偽物である場合も多いので、もはや最後に信じられるのは、自分自身の神仏心ということになるでしょう。
自分自身の心と向き合うための羅針盤となるのは神仏の教えに他なりません。
しかしながら、最後の頼りになる神仏の教えの中にも、和の壊し屋たちが入り込み、その本来の教えを歪ませて、人々を迷いの迷路に誘うのです。
もはや絶望的な状況です。
真理を語ったお釈迦様は『私の言うことも鵜呑みにしてはいけない』と諭しました。
この意味は『どんなことも自分で確かめてください』という意味です。
しかし私たちはこの単純なことを実行していません。
マスメディアの情報はいわば、いかようにも創作できるフィクション(物語)の世界です。自分が現場で見聞きしたことではありません。
カメラに映っている人々はエキストラで、背景はセットだったり、CGであったりすることなど日常茶飯事です。
私たちは捏造された情報を見聞きして、あたかも真実のように錯覚して『これは自分で見聞きしたことだから間違いない』と簡単に洗脳されるのです。
この呪縛から解き放たれてください。
『私の言うことを信じれば救われる』という狂人からは全速力で逃げてください。
この世界の真理は調和です。どんなに壊し屋たちが和を壊しても、何度も何度も調和に戻ります。
ですから皮肉にも和の壊し屋たちの仕事が無くなることはありません。和を壊しても壊しても、また調和が生まれてくるのですから…。
和の壊し屋になってしまった人々は、その仕事で酷く疲弊し、寿命は驚くほど縮み、今生では心安まることはなく、今生を終えて、次の生存の世界においても、再び苦しみの世界から始まってしまうのです。
しかし和の壊し屋たちも、本当は和を壊したくない心が宿っています。調和を宿している生命しか、この世界に生まれてくることはできません。
今は和を壊してしまう側に居たとしても、ほんの些細なきっかけで、ガラッと方向転換することができます。
ほんの些細なきっかけとは、今です。
私はいち自然農の農夫ではありますが、私自身も調和の壊し屋なのです。
食べものを育てるということは、その場所の土をイジり、一旦自然の生態系を壊して、そこに種を蒔くからです。
自然の調和を壊しているという自覚があるゆえに、限りなく壊さないように努めます。
人間一人が生きている限り、自然の調和を壊しながら生きているという自覚が必要です。
食べ過ぎは、その分誰かが殺しているということです。
欲張り過ぎは、その分誰かから奪っているということです。
怒りはそのまま、争いの種蒔きと一緒のことです。
無明はそのまま、多くの命から明るさを奪うことと一緒です。
本来の仏教(テーラワーダ)では日々、懺悔請願の文を唱えています。
『無明の闇に覆われて身口意の三業によって犯してしまった過ちがあります。仏法僧に対する過ち、恩師に対する過ち、生きとし生けるものに対する過ち、これら一切の過ちを懺悔いたします。また自分が受けた他の生命の過ちも許します。このように雑事を離れ、一人静かに自己の心身を見つめるとき、瞬間瞬間変化生滅し続ける現象をヴィパッサナー(ありのままに観る瞑想法)によって洞察し、真の幸福を経て解脱の道へ導かれますようにと、ここに請願いたします。』と。
悟るまでは、ずっと無明のままです。ですから毎日反省する謙虚さが必要です。謙虚さの先に悟りがあります。
『自分は割とまっとうな人間だ』と思う人の心の闇は消えません。
和を乱し続けている自覚のある人間が、より調和に近づき、心の平安に近づきます。
世界の怒りや争いを減らしたいあなたの心に、怒りや争いの種は蒔かれていませんか?
世界の貧困を減らしたいあなたの心に、貪って困っている事実はありませんか?
世界の闇を減らしたいあなたの心に、真っ黒な闇が潜んでいませんか?
私の心に怒りのエネルギーはないだろうか?
私の心に欲望のエネルギーはないだろうか?
私の心は洗脳されて無明の闇に覆われていないだろうか?
そのような自問自答こそが、心に革命を起こすエネルギーなのです。
自分の心が清らかになったら、その分だけ、世界は清らかになるのです。

つきよみ   自然農園

神奈川県厚木市•伊勢原市のつきよみ自然農園。年間40種類以上の野菜を育てています。

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